ああブログ

考えたことを書き残す場所

音楽とは深夜に一人で聞くもの

令和最初のブログ(笑)

 

自分にとって音楽は

盛り上がったり気分を高める手段でもあるし

人とコミュニケーションを図る話題でもある。

楽器を触る身としては、

かっこいい自分に近づくツールという面も否定できない。

でも一番は、ひとりでひっそりと聞き入りながら

あれこれ思索するためのもの。

曲の世界に入り込んで、何を言わんとしているかを

探り知るためのもの。

逆にいえば、そういった楽しみ方のできるものが

いつしか自分の「本当に」好きな曲として分類されてきた。

 

 今まで多くもないけど、多分少なくもない音楽を聴いてきて

その中から削ぎ落とされるように、ふるいにかけられるように、

最終的に残って、馬鹿みたいに繰り返し繰り返し

聞き続ける曲というのは結局のところ

まるで自分のことを歌っているように感じられる曲だ。

自分は幸か不幸か、自分自身についても他人についても

悪いところを見つける方が速い性質だと思う。

中庸でありたいと思いながら実際は

慢心と自己嫌悪の間を揺らぎ続けている。

そんな自分が共感できるような、

弱さをさらけ出しているような歌を

知らず知らず好きになってきたのだろうと思っている。

 

スピッツ

これはもう、言わずもがな情けない「僕」の歌だ。

もはやマサムネ氏の作意が違ったとしても、自分の中では

そういう定義が確かなものとなっている。

なにせ

愛してるの響きだけで強くなれる気がしたよ

と歌う「チェリー(ボーイ)」こそが「僕」なのだから。

一見優しげな「僕」は、実は

「君の優しさによって優しくなれる」

という形でしか優しさを体現することができない。

本質的に、「僕」には優しさが欠けていて

「君」という存在を必要としている。

君に届きたくて、でも届かない

すけべ心を持て余した一匹の男。

そんな「僕」を隠そうともしないスピッツの歌詞を

好きになったのは必然だったのかもしれない。

 

THE YELLOW MONKEYよりも吉井和哉ソロの方が好きだ。

イエモンの時代は、ギラギラしていて

愛と性欲を歌う(笑)まさに

「ロック・スター」然とした曲が多い。

それもそれで好きなのだけれども。

対してソロの楽曲は、自分への自信の無さであったり

美しい過去への未練であったり

自分は独りだという気付きであったり

そういったテーマのものがかなり多い。

ソロになることで、スターからひとりの人間へ

それも、泥臭い悩みに満ちた人間へと

変質したような、そんな印象すら受ける。

「創造主たる神」として人と関わる

旧約聖書イエモン時代とするならば

吉井和哉ソロは「ナザレのイエス」という形で

市井を生きた新約聖書といったところか。

こんな喩え方をしていると怒られそうだけれども(笑)

 

そのほか、フジファブリックandymoriといった

アーティストも今後もブログで取り上げたいと思っている。

多角的な魅力を持つバンド達ではあるのだけれども

一番は、彼らもやはり自分の情けなさを

どこか慰めてくれるような、共感してくれるような

そんな魅力を持っていて、

そこに自分は惹かれたのだと思う。

 

そして最後に藤巻亮太

ソロになって最新のアルバム2枚は、あたかも

「もう悩むのはやめました」

「悩んでいても仕方ないですよ」

「前を向いて生きていきましょう」

みたいなツラをしている曲が多い。

いや、もしかしたら世間の多数派の人たちは

音楽の歌詞にそういうものを

求めているのかもしれないけれども。

でも藤巻の歌詞は、そういう綺麗な結論に

たどり着くまでにうだうだ悩んだ過程こそが

魅力的で美しいのだと自分は信じてやまない。

もっとそういう部分も歌詞にしてほしい。

そう思いながらずっと最新アルバムの「愛を」を

繰り返し聴いている。

後ろ向きで、未練がましくて、

自分の至らなさを痛感していて、

自分に愛が無いことを自覚するがゆえに

「愛を」「愛を」と何度も叫ぶ歌。

そうそうこういうのだよ。

こういうのをもっと作ってくれよ。

そう思いながらずっと藤巻亮太を追いかけ続けている。

 

(1602文字)