ああブログ

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天地創造と進化論

はじめに断っておきますがあくまで個人の考え方です。

特定の団体の公式見解ではありません。というテンプレ的なやつ。

 

いちクリスチャン(キリスト教徒)として進化論をどう捉えているかというお話。

中世あたりに生まれていればこんな悩みとは無縁だったかもしれないが

現代のクリスチャンは、人は神がつくったのか?

それとも進化によってうまれたのか?という

この二者択一的な問題をおそらく避けて通ることはできないだろう。

これに対して、カトリックプロテスタント

そのほかこまごまとした宗派流派で色々な見解があるだろう。

私はというと、親に連れられて生まれた時から教会に通っていたのだが

その教会は「福音派」という、とにかく聖書主義、

ざっくり言えば聖書は完全無欠で誤りのない神の言葉だ、

ということを信じる教会であった。

なので、親や日曜学校の教師から「『創世記』の天地創造が正しいんだよ」と

教えられ続けてきたし、実際10代のころはそういう考え方だった。

 

むしろ進化論の信用ならないところを見つけてやろうなんて気持ちで

ネットを検索して、自分たちと同じく創造論を取る立場の人の主張を読んで

なんとなく満足したりもしていた。

しかし時がたち、それなりに年も取り、

いつしか「進化論が正しくてもおかしくはない」と思うようになった。

考古学だとか遺伝学だとか、専門家じゃないので詳しくは知らないが

そういう分野で進化論が有力とされる一方、

旧約聖書の歴史的な記述がどうも

考古学的にすべて正しいわけではないという事実は

いち現代人としては、やはり無視できるものではない。

「あくまで可能性が高いだけであって、

創造論が正しい余地も残されている」

そんな風に考える手もあるかもしれないが

可能性の話なら、やはり進化論が正しい可能性のほうが高い

というのが現時点の私のスタンスだ。

 

では天地創造はまったく信じるに値しない空想なのか?

と言われると、そうも思わない。

最初にこの命題は二者択一的だと書いたが

私はその枠組みをあえて外れて、両者とも正しいという立場の人間である。

 

というわけで、以下はどうしてもクリスチャン的目線から

聖書を擁護するバイアスのかかった理屈にはなるだろうが、

そもそも、『創世記』というのは2000年も3000年も、

あるいはそれよりはるか前に「口伝」として成立した物語なのだ。

『創世記』が神から人間に天啓のように与えられたものだったとして、

かつそれが現代のわれわれから見て正しいと思えるものだったとしたら

おそらく当時の人々からすれば意味不明もいいところの代物だったであろう。

このブログも、一応は「想定読者」というものを念頭に置いて書いている。

クリスチャンはほとんどいないだろうということで

聖書の話を取り上げるときは、突然ディープな話題に突入したり

専門用語を紹介しつつふんだんに使ったりせず

まだ身近なトピックを、そこまで深入りせずまとめられれば…

といった塩梅である。

『創世記』の想定読者も、一番は当時を生きた

およそ科学的思考など持たず、識字率もとんでもなく低い、

いやそれどころか満足に教育など受けられない人々であっただろう。

そんな人々が理解できるように、あるいは口承できるように、

という配慮を神が行った結果が『創世記』なのだ。

だから天地創造は6日で行って1日休むという

簡潔な構造をとっており、なおかつ

「だから人間も1週間をそう過ごすんだよ」という

生活の指針のようなものも兼ねている。

「神」とか「人」とか「罪」といった概念についても

物語形式でわかりやすく、それでいて示唆に富んだ内容となっている。

 

また、『創世記』の天地創造はそれより昔に成立した

シュメール神話と大筋がだいたい一緒で、

要するにただのパクリだ、という指摘もあるらしい。

これについても、私はそうであってもいいと思っている。

シュメール神話という、当時世界のはじまりはこうではないかと

信じられていた物語を換骨奪胎する形で、

『創世記』は真理を、あるいは筆者の主張を示しているのだ。

 

では、その「真理」あるいは「筆者の主張」、

そして私が思う「天地創造の正しい部分」は何か?

それは「神が意思を持って世界をつくったこと」

「神が意思を持って人をつくったこと」

大まかにいえばこの2点だと思っている。

これは言い換えれば、この世界も人間という存在も

決して偶然によるものではない、ということである。

たとえビッグバンから始まって60億年であろうが7日間であろうが

世界ができたのは神の意志によるものであるし、

アダムとイブが出発点であろうが猿の親戚であろうが

人間、ひいては「わたし」という存在もまた

神の意志によるものだ、という部分は

私の信仰の、そう簡単には譲れない部分である。

いわゆる「聖書」と呼ばれる66巻の書物が

天地創造を切り口にこういった普遍的メッセージを

導入として始まっていくというのは、

聖書の優れたところであり、時代も人種も超えた「世界宗教」として

受け入れられる要因の一端なのではないかと思っている。

なお、聖書とは言っても「新約聖書」のほうはというと

いきなり日本人には馴染みのない人名の怒涛の羅列から始まってしまう。

クリスチャンの私から見ても、こちらはどうも

「聖書を読んでみよう」と興味を持ったビギナーの出鼻を

大いにくじく、なかなか罪作りな導入である。

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